木苺


 

俺は、教官室の裏手の、静かな森の中を歩いていた。
初夏の木立の間から木漏れ日が僅かに漏れて、足下に薄い影を作っていた。
こんな天気の日にはよくあいつと並んで歩いたものだった。

任命期間不明のまま俺が聖地に召喚されることを知ると、あいつはほどなく別の同僚に鞍替えをして、ほんの先日挙式した。
俺の気持ちはどうなる。
何も優しいことはしてやれなかった。だが決して粗雑に扱ったつもりはない。別の異性に気を移したこともない。あいつもそれはよく知っていたはずだ。
「あなたにもっとしっかり捕まえていてほしかった」
こんな言葉を残して、数ヶ月後には周囲に居合わせた男のうちの一人と生涯を誓う。その精神は−"精神"の教官を任命された俺にしてすら−到底理解できるものではない。いや、多分あいつ自身が変わってしまったのだ。そう考えないと、俺はあいつと過ごした日々すら否定してしまう。確かに存在したあの日々のことを。

「ヴィクトール様」
足下から小さな声がした。
「?」
「こんにちは」
アンジェリークか。
見下ろすと、そこには茂みの中から顔を出す小柄な少女の姿があった。
この少女は、自分の半分程度の年齢でありながら、この宇宙を統べる"女王陛下候補"として聖地にて適性試験を受けている。もう一人の華やかで活発な候補とは対照的に、人見知りがちで、物静かな、いや、どちらかというと地味な雰囲気の少女だ。女王の補佐をする守護聖たちの中にも、あまり興味を持って彼女と接している人物はなかった。確かに女王としてみた場合、もう一人の少女の方が全て上回った資質を持っているように思えた。
「どうした、こんなところで何をしている」
「苺、摘んでいたんです」
「苺?」
「昨日ここに散歩に来たら、木苺がたくさんあるのに気がついたんです。それで」
「…」
腰をかがめて覗き込むと、確かに周囲の木立はオレンジ色の実をそこここにつけていた。
「よくここに来るのか」
「あ、はい」
「そうか」
「はい」
会話が続かない。どちらかといえば口数の少ない自分と、いつも視線を合わせて話そうとしないこの少女とでは、確かに会話にはなるまい。俺は居心地の悪さを隠すため、適当にそのあたりの一粒を指でもぐと、口の中に放り込んでみた。
「うまいな」
「よかった」
にっこりと微笑む。自然な笑顔だった。
ふと、肩の力が抜けた。
「お前は、故郷に残してきた人のことなどは気にならないのか」
「え?」
「いや、ほら。両親とか…友達とか」
さすがに"恋人"という単語は控える。教官である自分がそのような私生活を尋ねることは非常識であり慎むべきだった。
「気にはなります」
気負わない答えが返ってくる。
「そうか」
「みんなに応援されて、ここに来ました。でも、ここは私には合いません」
少しぎょっとして彼女を見た。合わない? 仮にも教官たる自分に向かってそのようなことを伝えたらどう思われるか、この少女は理解していないのだろうか。いや、まさか。
「合わない、というのは、気候や水が合わないという意味で言っているのか。それなら大丈夫だ、俺も色々な戦地を巡ってきたが、やがて身体の方がなじんでくる。お前も試験が終わる頃にはきっとこの場所が好きになっていると思うぞ」
少女は自分のフォローにかぶりを振った。
「ゼフェル様を見ていると、同じことを思っているなと思います。この場所では、守護聖様方も私も、自分の中の"別のもの"を必要とされているだけなんです」
「別のもの?」
「ええ、別のもの」
短い答えながら、歯切れのいい言葉を返す。授業中のおどおどした様子はそこにはない。
「そう思いませんか」
「い、いや。その、お前がいう"別のもの"というのがよく分からん」
アンジェリークは掌から木苺を一つ摘み上げると、そっと手渡してきた。
「?」
「虫に食べられています。私と同じで、別のものに入り込まれてしまっています」
虫食いの木苺が、自分と同じ?
彼女は自分の視線に気づくと小さく目を伏せた。
先ほどの、守護聖も自分も同じだ―という言葉を思い返す。
この少女は、自分や守護せ聖たちの能力を、こともあろうに"虫"に例えているというのか。
確かに、彼らの能力というのは寿命とは関係なく、突然消失して別の人物へと現れたりするという。ゼフェルの前任の守護聖は特にその消失が突然で、本人にすら予測できないものであったためか、後継者として召喚されたゼフェルを憎みながら聖地を去ったという。
そのことをも含めて彼女は言ったのだろう。
しかし…
「アンジェリーク、そのことは俺にしか言ってはいけない。それは適切な表現とはいえん」
彼女は自分を見上げると少し悲しい顔をした。
「お前はこの宇宙を統べる女王陛下としての資質を持つとして選ばれた存在だ。今は自信がないのかもしれないが、いずれもっと強く自覚するはずだ」
少女のハシバミ色の瞳がじっと自分を見据えた。今まで意識して目を合わせたことがなかったが、不思議と深い色をしていることに気づく。
「私は"女王の資質"が、自分そのものとは思えないんです」
「その資質を育てるために俺は召喚されているんだ。余計な不安は持たなくていい」
「でも、ヴィクトール様も…」
唇を少し動かし、息を吸いかけると言葉を接いだ。
「ヴィクトール様も、さっきは不安そうでした。とても寂しい顔をしていました」
「!」
俺は意表を突かれた。見ていたのか。
「あれなら大したことはない、気にしないでくれ」
「ヴィクトール様も、故郷に、どなたか気にかけている方がいるのではないですか。だからさっき私にそう聞いたのですよね」
「それは」
「…もしそうなら、精神の教官の方でも、精神では打ち勝てない部分があるのなら、私たちの役割も絶対ではない、と思います」
「言い過ぎだぞ、アンジェリーク」
思わず少し強い口調になる。彼女は口に手を当ててびくりとした。
「あ」
いつもの気弱な表情に戻っていた。
「ごめんなさい、すごく失礼なことを言ってしまいました」
「俺のことはいい、だがお前を含めて、宇宙を守護する方のことはそのように言ってはいかん」
言いながらも、それが建前の言葉に過ぎないことを苦い気分でかみしめた。そんな飾りの言葉でごまかしても仕方のないことだ。
彼女は一歩後ずさった。オレンジ色の果実が足下に散らばる。
「私、育成に戻ります」
背を向けると駆け出していった。


俺は、残された木苺を摘み上げた。

「俺は」

何をあれほど動揺してしまったのだろう。
彼女はまだ女王候補として召喚されてから日が浅い、自分の能力に自信が持てずに情緒不安定になっていただけなのだ。そんなことも気づかず、自分の至らぬ点を指摘されて腹を立てるなど、何という情けなさだ。
木立の中を再び歩き出す。木苺を掌で転がす。
虫か。

人間そのものの考えとは別に、気まぐれに現れ、そして消えていく能力。存在、とも言い換えられるのか?
「いかんな」
呟いてみるが、考えることはやめられそうになかった。俺はしばらくあてど無く木立の中を歩みながら夢想した。

虫、とは。
あるいは、それほど特殊なものでもないのかもしれない。
例えば…
そうだ、例えば彼女の気持ちだ。なぜ気づかなかったのか。

この世で最も遠い存在となった、かつての恋人と過ごした時間が翻った。
甘やかな優しい時間の積み重ね。
このままずっと続くと信じて疑わなかったささやかな日常であり、そしてもう二度とは戻ってこないー。
自分を大切に思っていてくれていた、彼女が、そこにはいる。

俺は首を振った。

あれもまた…虫だったのだ。
彼女の中に舞い降り、やがて飛び去っていった、一つの感情。
飛び去っていった理由は、俺のせいかもしれない。彼女の心変わりだったかもしれない。
だがそれすらも、今ではもう、遠い過去のように思えていた。
彼女の中にそれがなくなってしまった今、例え再会したとしても、二度とは自分の愛した存在を見い出すことは出来ないのだろう。
あれは完結した一つの思い出なのだ。
そう、心のどこかで理解した。

アンジェリークに、すまないことをした。
自分の中に存在する全ては、精神で制御できうるなどではない。
自分の意志とは無関係に現れては消えていく、様々な能力、そして感情。それらは"自分そのもの"とは別のものだ。それを直感していたからこそ、彼女はこの虫食いの木苺を手渡したのだろう。
今度教官室を尋ねてきたら、謝ろうと思った。
掌に包んでいた木苺を遠く放り投げると、少しだけ楽な気分で森の出口へと歩き出した。

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