セラフィータ(2)

「お父様、お帰りなさい」
「ああ」
淡黄色の室内着の裾を両手でたくし上げながら少女が玄関へと現れる。青年時代に参加した北欧の戦地で現地の女性との間に生まれた、今はヴィクターのただ一人の家族である。
「今日は、おもしろい人間に会ったぞ」
「おもしろい人?」
「ああ、施設に入れられていなければ、また会えるだろう」
「ふうん。アンジェも会ってみたいなあ」
「学校でいい子にしていれば、連れていってやるさ」
娘―アンジェリカは首をかしげると母親そっくりの笑顔を浮かべた。まだ一四歳ではあるが、確実に彼女の面影を蘇らせつつある。いつか自分の許から離れていってしまうだろうこの存在を、ヴィクターはほんの少し胸の痛みを感じながら見つめた。
「あのね、お父様。学校で思い出したのだけれど」
コートをきちんとハンガーにかけながら、アンジェリカが振り返った。
「私の学校、今おかしなことが起きているのよ」
「おかしなこと?」
「うん、…あのね、亡霊が出るの。去年卒業するはずだったけれど、自殺した人だって」
「くだらんな」
アスコットタイを外す手も止めずに返す。だって、と不満そうに口をとがらせる娘に歩み寄ると、大きな掌でその頭をぽん、と叩く。
「俺は長い間戦場や殺人現場に出くわしているが、そういうやつは見たことがないぞ。もし本当に、死者の霊とやらが残っているのなら、真っ先に俺みたいなのが見えてもいいだろう、そう思わんか、アンジェ」
「でも…」
「ん?」
「ラテン語の先生が昨日窓から落ちたのよ。自殺したところと同じ窓から」
「うっかり足でも滑らせたんだろう」
「その先生、自殺した人とすごく仲が悪かったんだって。だから引き吊り落とされたっていう噂なの」
「ふむ。だがアンジェは、その人とは知り合いじゃないんだろう?」
「うん。全然知らない人よ」
「だったら大丈夫だ。亡霊というのはそうめったやたらと人を襲うもんじゃない」
少し安心した様子になる娘をそっと撫で、室内着に着替えたヴィクターはソファーにどかっと腰を下ろした。
タイムズの夕刊に目を通すが、特にこれといった記事もなくテーブルに戻す。
キッチンからはポークド・ビーンズの濃厚な香りが漂ってくる。戦地仕込みの父親の味覚に当時を知らない娘も慣れ親しんでしまい、とうに平和な生活に戻った今でも、時折こんな料理がヴィクター家の食卓には上る。
その香りを吸い込みながら、彼はぼんやりと娘との会話を反復した。
亡霊というのはそうめったやたらと人を襲うもんじゃない、か。我ながらよく云ったものだ。そんなものがいたら、俺なぞ敵国の兵士や戦死させてしまった部下たちに、八つ裂きにされても仕方ないだろう…
しかし、実際には彼らはヴィクターの前に姿を現したことはない。
今は亡き恋人、リュミーヤも、同じく。
彼女なら、亡霊であってもいい。
だが実際には、アンジェを産み落としてすぐ敵方の銃弾に倒れた後、あの笑顔は夢でしか向けられたことはない。
だから亡霊は、たぶん存在しないのだ。
「たぶん…な」
呟いて運ばれてきた皿からビーンズをすくい、よく煮込まれた粒をほおばった。

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